ものつくり大学やKSD事件の村上正邦と佐藤優の対談。国家主義者の2人の話はこれから日本をどうしたらいいか、それを考える一つの材料になる。
詳しい中身は佐藤優の本を読んだ人ならおなじみのことが多い。
面白かったのは田原総一朗が佐藤優にチクった竹中平蔵と小泉の話である。
(郵政民営化の話の流れで)
佐藤(優):いや、それでね、田原総一朗さんが「フォーラム神保町」で明かしてくれたんですが、郵政民営化について竹中さんから相談を受けたと。竹中さんは突然、小泉さんが言い出して、それから理屈つくってくれと言われたらしいんです。竹中さんから田原さんは「とりあえず理屈つくるから聞いてくれ」と言われたと。それを田原さん聞いて、「わかんねぇ」と言ったらしい。そしたら竹中さん、「わかりませんか。じゃあ、別の理屈をつくってきます」と。そういうことを三回やったって言ってましたよ。ご本人の証言ですからね。
『大和ごころ入門』 P.194
これとは別に、勝間和代さんのラジオに出演した元財務省官僚の高橋洋一の話でも、日銀が当時金融担当大臣だった竹中平蔵の話をちっとも聞き入れてくれない、みたいな話をしていた。
結局この竹中平蔵という男は都合の良いように担ぎ出されただけだったのではないだろうか。
この本では、国民国家の力の源泉には中間組織としての市民社会であると論ずる。
企業社会や地域社会、趣味の社会でもいい、そういったものに個人が参加して、その中で意見が醸成されて国政に反映される。
これが間接政治である。直接反映されないことで感情的な意見から、客観的で冷静な意見として伝えられる。
また、こういったコミュニティに属することで個人が社会の一員であることを感じたり、またその個人に何か不運が起きても受け皿として機能してくれる。
これこそが民主主義であり国民国家であるというのである。
なるほど。
そう考えると、合理化の名の下に次々と曖昧な繋がりを潰していき、結果的に社会から中間組織を消し去ってしまった構造改革というものが、どれほどこの国にダメージを与えるものであったか。現状の社会状況を見ると納得することばかりだ。
この本の話で面白いのは、戦前のナショナリズムから全体主義へ傾く前の時代は今以上に自由主義の時代であったそうだ。そういえば野口悠紀雄の本にもそんなことが書いてあった。
自由主義によって貧富の差は拡大し社会不安が増大した結果、市民社会という中間組織を失い、個人と国家が直接結びついてしまう暴走したナショナリズム=全体主義を生み出す。
そんな怖い話が、今まさに大不況、失業者が大量に溢れからんとする状況の日本と、明らかに重なって見えるのは僕だけだろうか。
この本を読んで見識が広がった。著者自身が言うように文才は無い。でも秀才だ。
ナショナリズムについて新しい視点が加わることは間違いない。
毎日どこかしらのベローチェに立ち寄るのだが、昨日入ったベローチェの砂糖があまりにも少なかったので笑ってしまった。
いくら経済危機とか原料高(もう違うけれど)とはいえ、いくら何でも減らし過ぎだろう。
もしかしたら自分の開けた砂糖だけが少なかったのかもしれないが、社会がヤバい局面に入ったことを感じずには居られない。
社会がヤバい状況を体感した事例をもう一つ。
池袋の地下通路には浮浪者が床に寝そべっていることが多い。
と云っても普段は通路の端から端まで、居ても2、3人くらいである。
ところが先週の日曜日、同じ通路を通ったら、柱一本につき浮浪者が2人という状況で、そのあまりに異常な増え方を目にした時に「これはかなり危ないのではないか」と感じずには居られなかった。
失業者が街に溢れている。
自分は意識的にそういう街を避けているが、たまに通り過ぎると日本の暗部を垣間見た気がした。
追記:
後日、御茶ノ水のベローチェで砂糖の量を確認したら普通(の少なめ)だった。
だから秋葉原のベローチェの、自分の手にした砂糖がたまたま少なめだったのだろう。
ベローチェの悪口を書くと訴訟でも起こされそうだし、こうしてすぐに訂正しましたよ。
私はWRC(世界ラリー選手権)が好きだ。
世界中の自然の中を走り回るモータースポーツのわけだが、つい先日その日本開催であるラリージャパンが行われた。
場所は北海道。
当然私はテレビ録画を見るしか無い。
しかし、テレビであればほぼ全戦のダイジェストを見ることができるから、これはこれでいい。
というかこれがいい。
前置きはさておき。
今回ラリージャパンを見て思ったことは、日本の森と欧州の森が明らかに違うということだ。
日本の森は欧州の森に比べて、まさに生い茂っているという表現がぴったりなくらい草は茫々だし、しかも成長を止めるつもりもないらしく森が道を飲み込もうかとしているかのような感じを受ける。
人が踏み込みづらい感じは日本の方が強いかなと。
しかしこれはテレビから見た自分の印象だし、ちっとも正確ではないや。
巷に溢れるニュースを読むだけでそれとわかる。
もう中国のことも笑ってられないし、隣国にはたかられるし、メディアも政治家も官僚も他人の足を引っ張るのにご執心のようでちっとも物事が前に進んでいないように思える。
これほど社会に閉塞感が漂うなんて、こりゃ一体どういうことなのかね。
そりゃ、仮想世界に逃げたくもなるよ。
このブログを読んで、「とんでもねぇ暴論だ!」などと息巻いてしまったが、ブログのプロフィールを読んで納得、そういう趣旨でしたかと。
売国左巻きばかりがメディアで跋扈する国で、正論言っても通じないなら極論でセンセーション起こすしか無いよね、って気はわからなくもない。
私の意見では、今後国際的に英語の重要性が増していったとしても、日本語教育は必要だ。
グローバルだからこそ、日本にしかないことを学ぶことが強みとなる。
例えば日本人が日本に住みながら、それでいて英語で育っても、あまりメリットはない。
日本語には日本で生きていくための知恵やら感覚やらが詰め込まれていて、日々使うことで自然と日本的なものを理解できるわけだけど、英語でそれは厳しいだろう。
もちろん英語で育つわけだから、外国人との英語コミュニケーションは抜群だろう。
しかしそれだけで、日本的感覚を身につけていない日本人に彼らは価値を見出すだろうか。
余程優秀ならばいざ知らず、凡庸な能力しかないのであれば、それはせいぜい劣化アメリカ人程度ではないか。
国家にはそれぞれ文化があり、それがブランドとしても認知されている。
多少のコミュニケーションの齟齬が生じてでも外国人を採用するのは、自分たちには無い物をそこの人間に求めているからだろう。
もし日本が世界第二位の経済大国ではなくただの発展途上国であるならば、これまでの論理を引っくり返して、確かに英語で育った方が良さそうだ、ということになるかもしれない。
しかし、実際のところ西欧文化圏でないにも関わらず、これだけの発展をしてしまっている。
こうなってくると、日本という国、そしてそれを支える文化と言語には何らかのパワーがあるのではないかと考えられないか。
そしてそれらを日本に生まれ、育つだけで自然と身に付けることが出来るのはかなりのメリットではないか。
日本語を習得した上で、英語を覚えればいい。
そもそも技術革新が凄まじいのなら、いずれは外国語を覚えなくても外国人とコミュニケーションがとれるとも考えられるだろう。
日本人が一生懸命に英語を覚えた頃にそういった技術が完成してしまったらむなしいこと此の上ない。
日本人は素直に日本語に磨きをかけてくれと思う。
末期過ぎて笑える
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1181449.html
しかし今回の経済危機はかなりヤバい。アメリカもヤバいしEUもヤバい。なぜか資源を持っているオーストラリアもロシアもやばい。
そんでここ数年、内需型から輸出型になってしまった日本もヤバい。
農民になりますか。
外部の声ばかりに耳を傾けて、足下見ていないから物事をうまく定めることが出来ないのである。
何の話って、日本の話だ。
もちろん世界の人とコミュニケーションをとるのは大事である。しかし、そこで主張すべきことは自分たちはこれが良いのだ、ということなのだ。本当はそうは思っていないんだけど、そういうことが正しいらしいから、とりあえずそのように発言しておく、みたいなのは日本人からも外国人からも信頼されない。
それなら理解なんてされなくていいから、自分たちの信念を貫き通すべきだと思う。
ただここで本心を言ってしまえば、運良く大陸の果ての島国に生まれたのだから、がつがつと大陸に向かって何かを仕掛けるとかしなくていいのではと思うのである。
大体昔の人たちも、余計なことを考えずに静かに暮らしたいから、わざわざ大陸から移住してきたのではないのか。
世界中ががっついているのなら、そこをするりとかわして、静かに暮らせる国を目指すのはどうだろう。右も左も同じような国ばかりではつまらない訳だし、別にアメリカみたいなスーパー自由主義である必要もなく、欧州のように絶対のアイデンティティを確立する必要もなく、のらりくらりで良いのでは。
そんなことを思った。
チンパンがマジでうけるんだが。
「あなたとは違うんです」や「うぃー」とか、もう日本語を話すことが出来なくなるから辞めるのではないか。
あの会見に本田圭を呼ぶべきだった。
福田「あなたとは違うんです」
本田「それはごもっともだけど俺の考えは違った」
しかも福田康夫のドメインが失効したらしい。
以前涼宮ハルヒのアニメが終わったころ、演出で公式サイトが消失したことがあったが、あれかな。
このあと、世界は康夫が望んだ世界に変わっているのかもしれない。
城山三郎はA級戦犯として処刑された唯一の文民広田弘毅にスポットをあてた。
彼は平和外交によって局面を打開しようとしていたにも関わらず、戦犯として処刑されることになる。
なぜこのようなことになったのか。
統帥権を盾に軍部はより強権的になり、さらにその中の若い参謀や佐官たちは中国大陸において謀略を巡らせ、陸軍中央の指示を無視して戦線を拡大していったことが記されている。
この本で印象的だったのは、日本とナチスが真逆であったにもかかわらず、結末として同じような道を歩んでしまったことだ。
日本は始めから終わりまでバラバラだった。
まず天皇の意思は反映されなかった。政府と軍部が対立し、陸軍と海軍が対立し、さらに陸軍中央と関東軍が対立していた。そして関東軍は功名と自らの理念に則って、参謀方部や外務省の意見を無視し続ける。
彼らの行動原理は理念と理想である。
そしてその理念や理想をもたぬものは、責任をあいまいにして終わらせている。
広田は責任者がみな自殺して無責任だとつぶやいたそうである。
みなが、決定者不在の権力に対して、盲目にしたがっている図がよく描かれている。
これが日本の現実といえば、きっとそうに違いないだろう。
過激派か、盲目な奴隷か。右と左を大きく触れ動いた世紀である。